昭和46年06月23日  月次祭



  (途中から)
 朝から晩まで、心の中で繰り返させて頂いておる事が御座います。それは、18日の月次祭にも申しました様に、一切合切がおかげと分らせて頂いて、お礼を申し上げる生活が出来たら、一切合切がおかげである。金光教の信心は、生きながら極楽じゃと言う。玉水の「湯河先生」のお言葉を聞かせて頂いて以来、私の心の中にもうはっきりそう言う事がですね、本当に一切合切がおかげである。
 一切合切がおかげであるっと、心に繰り返させて頂いておる。それはまぁ合楽でまぁ3年も、まぁ打ち込んで信心するなら、1年も信心しておる方であるならばです、確かに一切合切がおかげであると言う事が分かってるんです。もう全てが神愛だと言う事が分かってるんです。分かってるでしょう。分かってるけれどもどうにも出来ない。私共も是れはもう分かって、分かって分かり抜いた様に、思うておった。
 けれどもまあだまあだ分かっていなかったなぁと。ですからね、心の中に一切合切がおかげ、一切合切がおかげと心に、繰り返させて頂いとりますとねうかつにね、うかつにおかげを、おかげと思わずに、不平不足が出ろうとする所を、出らんですむ、おかげが受けられますね。一切合切がおかげ、一切合切が、おかげと心に繰りかえさせて頂いて、もう私はここ4、5日是れはもう、寝ても覚めてもそう言う事を、心の中に繰り返させて頂いておるので御座います。
 ところが、先ほど前講にひろ江先生が話しとりましたが、何時あんなお話をしたか知りませんけれど、皆さんにもう約束したと、もう折角信心させて頂くなら、もう全てを有り難く受けて行くぞと心に決めましたと。神様にも誓え、お話を聞いて下さった皆さんにも誓うたけれども、実を言うたらその、何もかにも有り難く頂くと言う事がいかに難しいかと言う事に、改めて気が付いたと言う事を申しておりました。
 本気で信心の稽古をさせて頂こう、本気で助かろう、そして折角信心させて頂く上であるから、ね、もう全てを有難い、有難いで受けて行こうと、嘘にでも良いから有難いと思うと思うけども、嘘にでも有難いと思えないと言う事実に直面する。そして、その事の難しい事に、まぁ少し迷いが起こる程しに考えておりますと、いよる事を言うておりますよね、しかしですそう言うの事が出来るのであろうか。
 人間がもうあれもおかげ是れもおかげと、思える様になるよりようになったら、真の信者だとおおせられるけれど、果たしてそう言う事が出来るであろうかと。まぁ思うて来たわけです。折角信心させて頂くなら、おかげは、いわば和賀心にあるのであり、おかげは真に有難いと思う心にあるのである事が分かって来た。そこで、有り難いと言うその心こそが和賀心であり、それで有り難く受けよう、有り難く受けようと、まぁそう言う姿勢を作った、決心した。
 ところが中々、実際問題はそう簡単に取り開かおろしてくれないと言う事に気が付いた。私は、今日その話を聞かせて頂きながら、やはり決心する、そこからやはり挫折するのはああ言う時であろうかと思うた。あれはまるっきり空、そらごです、そらごとだ、とても人間がそういう事出来るはずがない。有難い事は有難いけど、有難くない事は有り難く無いんだと。
 そう言う風に思うておる。けれどもなら、なら合楽では有難くないと思う事、難儀に感ずる事、その難儀に感ずるその難儀の実態と云う物をです、言うなら真から今からまぁ御理解頂くし、何故その事が有難い事かどの様な事にはむしろお礼を申し上げねばならない事か、不平不足を言うておる悲しんでおる、悲しいかろうけれども、よくよく分らせて頂くとそれは神愛の現われであると言う事を、あらゆる角度からお互い、まぁ頂いて来た訳であります。
 だから分かってる。頭では分かっている。分かっているけれども、心が言う事を聞かん。体が言う事を聞かんと言う事に気が付いて来た。そしてね、私は、ははあ、あそこん所に気が付いて行きゃ、こりゃおかげ頂くぞと、此処で聞き、頂きながら思うておる。自分でも何を言うたかさっぱり分からん様な事を申しましたがと言いながら、お話をしておる中に、自分自身がいかに無力な者であるか、詰まらん者であるかと言う事に気付きだした。自分自身がいかに無力な者か。
 又は自分自身がいかに浅ましい自分であるかと言う様な事柄が、言わば分かって行く自分の心の内容が分かって来た。だからその辺が分かって来りゃぁもう、私はあれも有難い是れも有難いと受けられる、もう間近かにあるなぁと私はそう思います。本人は何がなんか分からん様な話でしたって言いよるけれども、その辺の所を私は最後に聞かせて頂いて、そこに自覚しよるならもう大丈夫だと私は思うた。
 自分自身が分かり出した。「なえぞ障子一重がままならぬ、人の身である」事が分かって来た。神様のおかげを頂かなければいけない。有難いと思うてもこりゃもう有難い事なんだと分かっておっても、是れはおかげであると分かっておっても、有難いものが湧いて来ない、どうした事であろうかと気が付いて来た。其処でその有難いと言う心。有難いで受けよう、もう信心させて頂くからには、しかも御道の教師を拝命させて頂いて、是れから、お取次の御用にもならして頂こうて言うのであるから。
 本気で自分自身が有り難うならなければ、人は助からん勿論自分も助からない。本当の愈々お取次が出来んと思うたから、本気で一つ今日からは皆さんにもお約束して、今日からは何もかにも有り難う頂こうと言うたけれども、思うたけれども実際問題が其処に、横たわって来る時にです、実際はそう簡単に有り難くは思えない事が分かって来た。思うとすりゃ思うと、思うとする程「じれんま」に落ちて行くのである。
 其処から迷いが起る、是れは実際、到底こう言う事は人間では出来んのではなかろうかと、思いに思うて分らせて頂いた事は、自分のつまらなさ、自分の無力さ、てげんて、云う物が分かって来た。この辺も自分も話したら、気が気が付かなかった様ですね。ずばりそこから、そこそこ、っち言いたい思いが私はした。それが分かって来る事なんです、信心とは。そして有難いと思おうと思うても、神様から許されなければ、有り難く思えないのだと分かる、言わば分かるちょっと寸前になる訳なんですね。
 神様に許されなければ有り難いと思おうと思うても思えんのだ。そこで、神様に許されれると言う事はどう言う事かと言う事に又、心のひらめきがです、そこにおかげる事になって来るであろう。そうすると、いよいよ是れは、自分自身が神様に好かれる私にならにゃぁいけんなと、神様んに喜んで頂ける私にならにゃぁいけんなと分かって来る。是れから分かって来るのです。
  ははあ一切合切がおかげと分らせて頂いて、んなら心に一切合切がおかげ、一切合切がおかげと、私は心の中に呟かせて頂いておると言う事がです、私はそこん所がですね、ちょっと迂闊に受けられないような事の場合なんかは、是れを唱えておるともうすぐに、はーおかげだおかげだとお礼を申せる事になって来る。一切合切がおかげなんだ。それは一切合切がおかげになりたい、それはね。
 金光教の信心は生きながら極楽だと、極楽に行きたいと言う事ではなくてです、信心の稽古をさせて頂くなら、其処に焦点を置いて稽古をする事が、稽古であると言う事をです、私はこの頃気付かせて頂いて。」心の中にはぁ一切合切がおかげ一切合切がおかげ、其処で合楽で稽古なさっておられる皆さんの場合なんかね、私のまねをされたら、ひょっとするともう20年間も私と一緒に有難い有難いと言うて見えたのですから、そこが出来るんじゃないかと思うんです。
 一つ今日からやってご覧なさいもう本当に有難い。一切合切がおかげだと其処にはどう云う問題があっておっても、一切合切がおかげだ一切合切がおかげだと心の中に唱えさせてもらう。その一切合切がおかげであると言う事を、神様が分かってくれたかと喜ばれる。その神様の喜びが私の心に響いて来るのである。今朝の御理解などを頂いておりますと、その愈々本気でおかげを頂かなければならないなぁとこう思うんです。
 只今ご神前でどう云う今日はお話をさせて頂こうかと、只今そのご祈念をさせて頂いておったらね、皆さん御覧になった事があるでしょうか。「清本に」(やすな)と言う踊りがあります。やすなはやすは「保」という字が書いてある、な、名誉の名ね保名(だけんいおどり)。(チェック)する相手がなくなった。それでもうそれこそ気もそぞろとうとう気を取り失うてしもうて、彼女が着ておった小袖をこう抱えてへから頭にはあの紫の、両ち鉢巻をしてあの花道から、それこそ疲れた様にして出てまいります。
 そして舞台で菜の花畑が一面背景になって、蝶がまい遊んでおるその、蝶に撓むねながら舞うと言うお芝居なんです。こう踊りですね、歌舞伎でよくやります「靖名」と言います。そう云うね舞台場面を頂いた。ははああん事が舞台場面だと思うておったら、ちょっとその前の合いの手にですかね、誰かがすっとこう出てきた。紋付き袴を付けたこう、後ろで(後見)と云うのがおります。出て参りましたらその「靖名」が踊りの手を休めてね、手を引っ張って奥の方でこう引っ張って行こうとする所を頂くんです。
 そしたらそん、紋付き袴を付けとるとがね、嫌ですよと、言う様にして、手を振る切って、奥の方へ駆け込んで逃げて行く所を頂いた。ははあ是れが今日皆さんに分かって頂き、かなければならない事だなぁと言う事で御座います。私は「やすな」と言う事は、私の事だと思うた。あれはいわいる半狂乱、いわいる気違いなんす。気が違うている。金光様のご信心でもそうです。
 信心とは和賀心が神に向こうのが信心と云うのじゃと。此の方の事を生神、生神と云うけれども、皆んなも此の様なおかげが受けられると仰せられる。その生神を目指して、私共は日に日にその生神に近づいて行こうと言う信心、それが金光様のご信心なんです。言うならば段々段々気が違うて行くのです。ささを掲げてと行くと言う気違いではなくて、人間から神様え向って、違うて行くと云う、訳なんです。
 けれどもね、そこん所の、生き方になって参りますと、いかにももう本当に先生が間違ごうて御座るのじゃろうかと思う様な事がありますよね。先生そりゃぁそうでしょうけれどもと云う、付いて行かん様になる。見方が違うもん全然。ね、観点が違う。もう人間の考えござる事が、考え御座らんもん。言うなれば、神様が考え様ようなさるような事を考えよる。それでこっちがよかばいっち。
 こっちが参考になると言われると、もうこうやってからもう、まるっきり、気違いに手握られたごとして、ふり切って向うの方へ行こうとする。是れでは、おかげにならんと言う事なんです。けどもその辺が難しい。まるっきり気違いに手を引っ張られる様にある訳なんです。と云う程に、実を言うたら難しいと言う事だと私は思うとる。私共もそうでした。修行中の時分に何時も思いました。
 例え人が笑うても良いと。神様から笑われてはならん。まぁ是れが私の、信心の信条でした。人は馬鹿の様に言いました。けれどもね、神様からは笑われてはならないという、やはり、信心を進めさせて頂いておりましたら。言わば笑うておった者も、また成る程と合点する様になって来た。それがどう言う事かと言うとですね、もう人間ばなれしておる事をするからなんですよ。お天気の良か日に神様がたかぶくろはいて行けっち仰る、たかぶくろはいて行くんです。あん人は馬鹿じゃろうかじゃろうかち思う。
 終いには、近所の人達が言う様になりました。今日は大坪さんが傘持って行きよったけん、たがう雨が降るばいっち、そしたらたがわんごと雨が降る。たかぶくろはいて行きよってあったけんち言うな、雨が降るよと言よると必ず雨が降る。もう今にも降りそうにあっても、神様が傘はいらぬとおっしゃりゃ傘は持って行かん。傘を持ちなさいと云うてもいらん。もうそれこそ後ろのここまで降って来よったちゃ、私は濡れんと云う様なおかげを頂いて来た。
 だからそれを実際に見るとね、成る程と合点が行くのです。今はそう云う極端な事はないけれども、同じ事。親先生任せになっておるといかにも馬鹿のごたる。親先生が言われる通りの事を、一時が万事にその事に、そうならせて頂くと言う事が、神様任せになると言う事であり、其処の所の修行の成就があった時に、神様が氏子任せになると仰せられますからと云うおかげになって来る。
 私は今朝の御理解を頂きながら、是れはもう大発見だと思うた。まぁ何時もそれを思うです。教団の中にまだ1人でも此処に気が付いておるまいと思うた。今日御理解を頂いて。ん。御理解の中に、「親の言う事を云う事を聞かん子は、親でも仕方があるまいがと、時節を待っておかげを受けたが良かろうと」と云うて、言うあの御理解はですね、いわゆるる親の云う事を聞かん子共ですから。
 それはもう信心のない者の事とばかり思うておった。又はそれもありましょう。信心の有難い事を説かせて頂いても、まぁ信心させて頂く者は馬鹿じゃなかじゃろうかと。こげん早うからお参りして今、今日はきつかった今日あたりはもう、田植えが随分ね、始まっております。その田植えで、もうそれこそ疲れごての中にやはりお参りをして来る。本当に言うならば馬鹿じゃなかじゃろうかと言うごとあるです。
 神様は今日は一日田植えで疲れたごたる、ご承知なんだから、今日はご無礼しますと言うても良いのだけれども、けれどもやはり、その疲れの手を引きずる様にしてでも、やはりお参りをしておられる。山田さんやら、久富さんやらは、今日は田植えでもうくたくたに疲れてとんなさる。それでもやっぱりちゃんとこうやって、御体を洗い、濯ぎ、そして又背広を着替えて今晩のお祭りに参って来ておられます。
 それは、本当に馬鹿のごとある。神様の前に忠実になる、神様の前に全ての事がです、素直に神様任せになると言う事は、実はその様に見易い事であると同時に、また難しい事である。今日夕方杉山さんが、ある方を連れのうてお参りして来た。ご本部で御用を頂いておるお方なんです。お、もうこの頃ほんに御本部参拝の時に、あの駅んとこに、あの送りに来て頂いておったあのお方である。
 まぁ色々信心の四方山話をさせて頂きながら、先生信心ちゃ難しいですっち言わしゅから、まぁそうですっちまぁ、相槌地を打ったもんの、心の中ではそげん難しゅうもんじゃなかと思うた。有り難うして楽しゅうて応えん事ばっかりだ。(笑い)なるほど難しい事は難しい。けれどもんなら、光雄さんこの人は、まぁ自動車の運転でならまだ10何歳時からやってるのですから、もう自動車は、もう自分の手足の様に動かす。
 本当にそげんごたるです、乗っとると。もう光雄さんの、あの大きな自動車がですね、もう本当に光雄さんの手のごと、足のごと動くですよ自動車が。だからもうどのくらい御神酒頂いっとったっちゃ、この人の車に乗っとるなら安心って云うが致しますね。だから自動車運転は難しいねって、(笑い)もう眠り半分でよかっち。そげん見やすいとです。但しそれを、本当に運転をし習おうと思わんから難しいのである。
 し習うまでが難しいのである。昨日から私が申します様に、信心も手習いも同じ事。の、だから本気で手習いと同じ事とおっしゃるからです。本気で、筆はどう言うふうに持ちますか。姿勢はどうですか。と墨のすり方は。と例えばそこから習うて行かなきゃいけんのに、そげな事は習わんな、おかげおかげとおかげと信心と一緒になって行きよるもんじゃけん、何時までたったっちゃおかげの方に引っ張られて、本当の信心が分からん。本当の手習いが出来ん。
  神様がね「親の言う事を聞かん子は、親でも仕方がない。時節を待っておかげを受けたがよかろう」と仰るのは、そう言う例えば、信心のない人。そ、信心の無い人が、の事を言うておられると思うとるとです。この世に神様も仏様もあるもんかと、いくら神様の有難い事を言うて聞かせてもそれが分からない。ね。だから、そういう氏子の事を、仕方があるまいと、言うておられるかと思うておったら、そうではない。
 信心させて頂いておる者、いや日参り夜参りさせて頂いておる者ね、しかも10年も20年も信心を続けておる私共がそれである。神様の言う事を聞かんならもう、仕方がないっち、こうしてこうすりゃおかげになると教えてもですね、そんな訳にはいかん先ほどの靖名、じゃないけども靖名が丁度手を引っ張ってこっちさんが良かばいっち言うたちゃ、こうやって振り切ってから向うさい行ってしまうと言う事なんです。
 私を気違いと思うておる。そげんあんたの言うごたる訳にはいかんと言う風な頂き方をする。実は本気でそれが信心がそれで分らせて頂く事ならば、運転技術を覚えさせて頂く事ならばです。本気で一つ運転技術を覚えさせて頂こうと言う気になりゃ、運転も覚えた暁にゃもう眠り、眠り半分じゃ行くもんばってんね、それこそ自動車でそれこそ自分の、手のごと足のごと自動車が動く様になったらもう自動車と一体である。
 神様と一体なのである。其処からです私は楽しい言わば「信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうする」と仰せられる様にです。見やすい物になって来る。楽しい物になって来る。その楽しい物過ぎたち、こう思うのであります。其処からね一切合切がおかげ、だから丸くすると一切合切が何故おかげかと言う事を一つ分らにゃいかん。そして宏道くん、じゃないけども、折角信心させて頂くならばね、もうあれもこれも有り難いで分かったんだから、有難いで本当に受けて行こうと言う気にならにゃいかん。
 そう言う気に、本気にならせて頂くとです、言うならば運、運転を覚えるまでの難しさと云う物があるです。其処に直面するのである。細かい機会の事を覚えたりね、是を踏んだら、是を押さえたら、どうなるこうなると言う事を覚えて行くだけでもやはり難しい。けれどもそれが、自分の頭の中に入ってしまう、技術の中に、もう技術として体得してしもうたら、それが決して難しい事ではないと云う所までおかげを頂かねばならない。と言うてもなお、かつ油断は出来ない、私もそうです。
 信心ちゃこんなに有難い、見やすいもんじゃと言いながらもです、やはり心の中に一切合切がおかげ一切合切がおかげと言い続けておらなければ出来、出来ない。其処で「宏道くん」の場合は有難いと、いよいよその問題に直面した。所がそこに自分の行くてに、横たわっておるものはです、有難い事は分かっておるばってん、有り難く頂けないと言う問題に直面しておる。そこに壁へきとしておる。是れとても自分達くらいでは、これは出来んものではなかろうかとまで迷いが起こる位いに考えておる。
 そこに「ジレンマ」がある。そこからね、泣く泣く修行をさせて頂いておる所から、自分自身の技術のまずさ、自分自身の心の浅ましさ、自分の無力さ加減と云うのが分かって来た。「障子一重がままならぬ人の世である」と言う事が分かって来た。自分で有り難うと分かって居っても、思えないと言う事は、これは自分が思おうと思うても思えれんのだ。神様から許されなければ出来んのだと言う事が分かって来た。
 そこまで分かって来た。だから素晴らしいです。もう「宏道くん」はすごく、えもう後いっ、もう一頑張れば良いと。まぁ言いたい様な所なんです。そこでいう、自分自身の改まらなければならない事が分かって来た、自分の愚かな所が分かって来た。無力さ加減が分かって来た。其処から、絶対得である所の神様の働きに茹れると云う心。もう親先生、茹れる心。もう親先生の手を引っ張りながら、引っ張られる方に行くより他に仕方が無いのだと言う所。ほりゃぁこうやって振り切って。
 今日の私がお知らせ頂いたもそんな事じゃった。ですからです、言う事を聞く。例えばこうやって振り切って行く時に、神様がはぁもうね、自分の子供でも、それこそ信者氏子と言うて、わざわざ信心させて頂く者を信者氏子と呼んで下さる。その信者氏子でありながら、私の言う事をよう聞かん、是れはもう仕方がない、親でも言う事を聞かん子は仕方があるまいがと。
 こちらに来なければ本当のお徳を受けられん、力を受けられんと言うておっても、やはり振り切って向こうに行くのである。神様の後ろ姿を拝みながらまぁ時節を待っておかげを頂かにゃ仕方があるまいと、言わば嘆いておられると言う事がね、あれは無信心者信心のない者に対する御理解ではなくて、実を言うたら信心を頂いておる者しかも頂きたいと願っておる者に対する御理解である。
 と言う事を今朝からつ気が付きましたから。氏子が神任せなら神様も氏子任せになると仰せられますからと、例えばその事、その一時だけでも、本気で神様任せになろうとする。お伺いどんしよった先生が、三つ言いなさるなら困るけんで、もうお伺いするなら左の方で行こうと。そして左の方ばどうぞよろしくお願いしますと言うてお願いをする。なるほどお願いをするからおかげ頂くです。
 けれどもそれは自分の考えておる小さい目先のおかげなんです。いわいる無限大のおかげにはそれでは繋がらんと。金光教はこの世、この世で極楽とおっしゃるそのこの世で極楽と言う事になって来ないのだと。その辺の所からね、私共改めてもう一辺信心を思うてみて、成る程なるほど先生が気違いのごたる。それは、私が人間と神様との合い中にあるから。けれども私は決して、ささを掲げておるその気違いとは違う。
 何処までも一切がおかげ一切がおかげと、心の中に唱えさせてもらえば、もうその場でおかげと感じれれる程しのものをこん中に頂いておる。有難いって思やその神様のゆる、その有難いと云う物を許される私であると言う事。だから「宏道くん」の場合は、神様から許されなければ有難いと言うもんは頂けんと云う一歩手前まであるので御座いますから、その神様に有難いと思わせて頂く事を許される為に、その神様の心をいよいよ分かり、その神様の心に沿わせて頂く生き方。
 親先生がこっちが良いぞと仰ったら、はいと云う気にならなごとね、そこからあれも有難いこれも有難いと受けれる様になる。いわゆる有難づくめの中に自分が住ませて頂く事になるのであります。そう云う信心生活からです、私共が有難いと言ういわゆるこの世での極楽を心の中に、開かせて頂いて行く信心。そう云う信心を一つ本気で目指さなければいけないと言う事であります。愈々30日は大祓い式ですね、昔、昔の風で言えば大祓い式ですけれども。
 此処では交通安全の大祈願、役疫予防の大祈願祭が、30日に行なわれます。お祓いを受けると言う事だけでもこれは、甘木の初代が仰った。先生あげな事してから何かなりますか?ちお祓い、お祓いばこうこうして。受けんよりかよかばいっち仰った。そん受けんよりか良かばいと言う、そんな事が素晴らしい事なんです実を言うたら。そこん所がほんのもう一部一厘でもおかげ頂いとりゃ助かるち言う事なんですから。今日それからうちは、内田さんのお届け聞かせて頂きましたらね。
 椛目の私の元おった所に一件おいた隣に自転車屋がありました。あそこのご長男と内の若先生と友達です。それが夕べですね朝あんまり起きてこんけんで起こしきになってならもう死んどなさったっげな。前の日まで元気で次何日か前に何てですかね、奥さんばもらわっしゃる為のきまいの酒をおさめられた後であった。どぇもなかったピンピンしちゃった。そしてからお医者さんが見たら、もうこりゃ3時間前死んじゃるち仰った。それがね本当は人間の実態なんですよ。
 そう言う例えばね中にはそう言う時にです。ならお祓いを受けると言う事が受けんよりか良かばいと言うたったそれだけの事だけれども、それだけでこう受けておったらどうであろうか。自動車と正面衝突をすると言う時に、本当に1分間か1秒間どうかこうあったなら助かっとるのにって云う事があるでしょうが。その受けんよりか良かという事位の事だと言うのに、軽く見らづにですその事を受けなければいけないと言う気持ちになって、本気で今度の大祓い式を頂きたいと思うので御座います。
   どうぞ。